教案を作るときに考えること(日本語教育)

日本語の教案
大澤寺(だいたくじ)(大阪市)

どんな練習がいいのか

日本語を使いながら覚えられるような練習をさせたい

学生が、その場の状況に合った日本語を使いながら覚えられるような練習をさせたいと思っています。

「使いながら覚えられる」のが大切だと思っています。

そう思ったのは、「学力を問い直す」佐藤学 著(2001年、岩波ブックレットNo.548)を読んでからです。

*back to basics:1980年代初頭に取り組まれたアメリカの「back to basics(基礎に帰れ)」という運動

 アメリカにおける「*back to basics」の失敗の教訓は、多くの点で示唆的です。第一の教訓である「基礎的な知識や技能は、反復練習によって習得されるよりも、むしろ経験によって機能的に獲得される」という示唆について考えてみましょう。

 たとえば、小学校5年生の子どもがいて、3年生のレベルの漢字しか読み書きができないとしましょう。この子の漢字の基礎技能を高めるために、小学校3年の新出漢字をノートに反復練習させる方法は決して無駄ではありませんが、それよりも、その子が釣りが好きな子であったなら、釣りの本を数多く読ませ、仲間の中で表現させて、漢字に触れ親しみ漢字を使用する機会を増やす方が有効であるということです。確かに、小学3年の漢字を覚え、小学4年の漢字を覚え、小学5年の漢字を覚えるというふうに、順次、漢字を習得したとしても、その漢字に触れたり使用したりする機会に乏しければ、すぐに忘れてしまいます。むしろ、漢字を誤って読んだり、誤って書くことがあったとしても、漢字に触れる機会と使用する機会を増やす方が、はるかに効果的です。

 反復練習としてのドリル学習が重視される背景に、何度も反復練習すれば「定着」するという神話があるようです。確かに、技能の中には反復練習すれば無意識にできるようになって定着する技能もあります。たとえば、自転車に乗る技能などはその典型です。子どものときに乗れるようになると、何年も乗らなくても、身体がその技能を記憶していて容易に乗ることができます。

 しかし、学校で学ぶ知識の大半はそうは行きません。九九などは反復練習で定着したように見えますが、使用する機会がなければ、すぐに忘れてしまうでしょう。子どもの時に海外で生活した経験をもった人は、数年もすると、外国の言語を忘れてしまいます。しかし、その外国語の発音やイントネーションは身体の記憶として定着しているものです。知識や技能には反復練習によって定着するものと定着しないものがあるのです。学校で学ぶ計算方法や漢字や英語の単語などは、絶えず活用する経験を続けることが重要です。漢字や計算を最初に習得する時の反復練習は効果的ですが、一度反復練習して習得したからと言って定着するわけではないことを知っておく必要があります。もう一度繰り返しますが、基礎的な知識や技能は、経験を通して機能的に習得されるのです。

 だからと言って、暗記や暗唱に全く意義がないと言っているわけでなく、むしろ逆です。昔から「読書百遍、意自ずから通ず」と言われたように、学びにとって暗記や暗唱はきわめて重要です。模倣によって身体に刷り込む方法でしか学べないものがあるからです。芸術の作法や、学びの技法や、スポーツの技法などは、文化の型の模倣が学びの中心であり、暗記や暗唱なしでは学べません。しかし、テキストや手本が模倣に値するものでない限り、暗記や暗唱は百害あって一利なしであることも、同時に認識しておかなければなりません。

「学力を問い直す」佐藤学 著(岩波ブックレットNo.548)pp43-45

「基礎から積み上げないとわからない」と考えない

日本語の学習が進んでいくと、えっ、こんなことも知らない、わかっていない学生がいるとびっくりすることがあります。

そのときは、いま授業でやっていることができる、わかるために必要なことは何かを考えて、そのことをフォローします。

それはその場しのぎで、大して役に立たない、一からやり直さなければならないと考えません。

それを続けることで、知識や理解がつながっていくことを期待します。

こんなふうに考えるようになったのは、次の「学力を問い直す」佐藤学 著(岩波ブックレットNo.548)を読んでからです。

 さらに、「基礎学力」に関する誤謬の一つに、学力の形成を基礎から順番に上に積み上げてゆく教育のイメージがあります。ほとんどの教師と大人が、この誤謬に呪縛されています。文部科学省も、この誤謬にとらわれて教育内容を3割も削減してしまいました。「つまづいたら基礎にもどれ」は学びの鉄則ですが、その「基礎」とは「基本(fundamental)」の意味であって、「基礎(base)」に下げよという意味ではありません。しかし、大半の教師が、子どもがつまづくとそれ以下のレベルの内容に引き下げて教えようとします。この誤謬は、教育においてもっとも大きな誤謬と言ってよいでしょう。

 「学力」は基礎から上に積み上げて形成されるのではなく、逆に上から引き上げられて形成されていくのです。教育心理学を学んだ人は、ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」と「内化」の理論を思い出していただければ、この意味が明瞭に理解できるでしょう。「学力」を形成するためには、自分のわかる(できる)レベルにもどって積み上げてゆくのではなく、自分のわからない(できない)レベルの事柄を教師や仲間とのコミュニケーションをとおして模倣し、それを自分の中に「内化」することが必要です。

 学びにおいて必要なことは、わからない(できない)ときに階段を降りて下から昇りなおすのではなく、仲間や教師の援助によってわかる(できる)方法を模倣し、自分のものにすることが大事です。学びには〈背伸び〉と〈ジャンプ〉が必要なのです。

  これは多くの事例で説明することができます。たとえば、小学生の算数で一番つまずきが多いのは分数の計算ですが、分数の計算の方法を習得したとき、多くの子どもが分数の意味や計算方法の意味を理解していません。分数の意味が納得でき、その計算の意味がわかるのは、通常、比例を習ってからです。今度の学習指導要領の改訂で削減された内容に、台形と多角形の面積があります。実は台形の面積は、多様な解法が交流されて授業がもっとも興味深く展開する教材です。しかも、重要なことは、多くの子どもは、台形の面積を学んで初めて、三角形の面積の求め方を納得しています。学力は下から積み上がるのではなく、上から引き上げられるのです。

 学力を下から積み上げるイメージは、底辺校と呼ばれる高校の教師の中に根深く浸透しています。都市部の底辺校と呼ばれる高校に入学してくる生徒たちは、ほとんどが小学校、中学校で「オール1」に近い成績であった生徒たちです。したがって、ほとんどの教師たちが、彼らの学力を小学校3年のレベルと判断しています。ところが、これら底辺校と呼ばれる高校の生徒の意識を調査すると、学校に対する最大の不満が「授業がやさしすぎる」ことです。「もっと難しい授業をしてほしい」という要望が切実に表現されます。教師は「わかる授業」をつくるのに必死ですが、生徒は「わからない授業」を求めているのです。

「学力を問い直す」佐藤学 著(岩波ブックレットNo.548)pp45-46

授業の中で覚える時間を作るようにする

日本語を勉強するために日本へ来た留学生だといっても、家に帰って日本語を勉強する時間がそんなに取れるものではないと思うからです。

アルバイトもあるし、生活を維持していくためにしなければならない細々としたこともあります。

書式について

教案の項目を何にするのか

日本語学校に先輩に教えてもらいました。

3つの段階を考えて、授業の計画を立てたらいいということでした。

3つの段階とは

① 導入(形と意味がわかる段階)

② 文型練習(形の作り方を覚える段階・意味と形を結びつけて正確に産出できる段階)

③ 応用練習(適切な場面・文脈で適切に使える段階)

こんな書式を作りました

 

指導項目 指導内容
復習

今回、導入する内容を理解するために必要なことを復習しています。
この理解するために必要なことは既に学習している場合がほとんどだと思いますが、たとえ学習していたとしても学生は覚えていないという前提で復習をしています。


導入

(形と意味がわかる段階)

 

文型練習

(形の作り方を覚える段階・意味と形を結びつけて正確に産出できる段階)

 

応用練習

(適切な場面・文脈で適切に使える段階)

 

 

使ってみたら、何を教えるのかが意識化できて良かったです。

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